[イラストで描く世界史人物伝] Vol.02 弥助

2020年8月22日

突如として思いつきで始まった企画「イラストで描く世界史人物伝」。第2回の今回はポルトガル領アフリカから海をわたり日本へ渡来。その後に織田信長に召し抱えられたという数奇な人生を送ったアフリカ人侍「弥助」を描く。

黒い肌の侍

時は1581年。世界では大航海時代が始まって100年近く、ヨーロッパの各国は新大陸やアジア、アフリカへ富を求め進出を競い合っていた。アフリカの南東部に位置する現モザンビークの一帯はポルトガルに植民地支配を受ける事になる。そんなポルトガル領アフリカから一人の男性がイタリア人宣教師の従者として日本へやって来るのである。

1581年と言えば日本では織田信長の勢力がピークに達しつつある時期。イタリア人宣教師の従者として渡来した彼がどういう経緯があったかは不明であるが、その日本を統一せんとする織田信長の家来として召し抱えられる事になったのである。

信長に奉仕後、彼は「弥助(やすけ)」という名前を与えられ、さらには私邸に加え、帯刀も許されるという異例の厚遇ぶりで信長に仕えることになる。(のちのちは一国の城主にしようという考えまであったと言うから驚きである。)

しかしその翌年、また大きな運命の波が弥助を襲う。

1582年、本能寺の変が勃発。

本能寺の変で主君信長は明智光秀に討たれてしまい、弥助も明智方に捕らえられてしまう。しかし明智光秀にどういう本心があったかは謎であるが、弥助はそのまま処分される事なく身柄を解き放たれる。

そして、その後の弥助の消息を知る者はいない・・・・。

という、とても劇的な人生を送った男性なのである。

個人的に一番気になるのが、なぜ織田信長は弥助を家臣として召し抱えたのか?という所だが、型破りで有名な信長の事、当時日本において珍しいアフリカ人だったから興味本位で召し抱えたのだろう、と一瞬思いたくなるところだが、実は各種記録などをみると当時の日本には宣教師の従者としてそれなりの数のアフリカ人が来日していたようなのである。そうなるとただ珍しいから、という理由だけで上記の様な厚遇で召し抱えられるとは考えにくい。そこは実力主義の信長、やはり弥助が、肉体的にも頭脳的にも人的にも優れ、他の来日アフリカ人、引いては日本人よりも優秀な男であったからと考えるのが自然だ。

そんな弥助は来日する前から、イタリア人宣教師の従者として長らく海外を渡り歩いていたという説もある事から、ポルトガル領アフリカで育ち、ヨーロッパ宣教師の従者となった弥助は敬虔なキリスト教徒であったのではないかと個人的に考えた。

さらに実力さえあれば個人の信仰を深く問わなかったであろう信長、弥助は主君を信長として仕えつつもその信仰心は捨てなかったのではないだろうか。

この様な事から弥助をキリシタン大名の様な風俗として描いてみた。

弥助の残っている記録は絶対量としては少ないのだが、信長に仕えた期間がほぼ1年ほどと実に短い期間と考えると、対して残っている資料はむしろ多いほうではないだろうか。それは彼の見た目が当時の見本において珍しかったから、という理由だけではなく、それだけ武士としても優秀であったからに他ならない。

実際に本能寺の変では、その異変を一早く信長に知らせ、信長が討たれた後は信長の長男、信忠を守るために奮闘したという。

アフリカに生まれ、ヨーロッパの宣教師に仕え世界各国を渡り歩き、日本へ渡来、時の実力者に召し抱えらるが主君は討ち死に、その後の彼の行方を知るものはいない…。なんとも謎が多くドラマチックな人生を送ったのであろうか。

大航海時代、ヨーロッパの海外進出、イエズス会の宣教活動、戦国時代の日本、この様な大きな時代の波にもまれて生きた黒い侍「弥助」。みんさんは記録に残らない彼の真の姿をどう考えるだろうか。

 

※弥助は日本史史上の人物ではなないのか、というご指摘もあると思いますが、日本史に登場する人物も世界史的な観点から描いていきたいという思いと、日本史も世界史の一部という個人的考えから、今後も日本史史上の人物は時おり登場予定です。

川田 ヒデホ

金沢市在住のイラストレーター。仕事のお話や、取材先での出来事、あまり仕事に関係ないけど個人的に気になった出来事、など色々書いています。 お仕事の事やブログの内容などで気になった事があればブログのコメント欄や、スタジオトップのお問い合わせフォームからお気軽にご連絡ください。

コメント

コメントはまだありません


コメントを書く

*必須項目(メールアドレスは公開されません)

コメントは管理者の承認後表示されます