[イラストで描く世界史人物伝] Vol.5 カンビュセス2世

2020年8月29日

前回のVol.4に引き続き、今回も古代ペルシャのアケメネス朝から、2代目王カンビュセス2世を描いてみる。

今回のカンビュセス2世は前回取り上げたアケメネス朝初代王キュロス2世から王位をそのまま継承した息子である。

栄光の初代からアケメネス朝を受け継いだこのカンビュセス2世は実は歴史上の資料ではあまり評価がかんばしくない。

まだ王位を継承する前、父であるキュロス2世が王として君臨している時代にバビロニアの統治をまかされるが人望がなく統治がうまくいかなかったいう話や、王位を継承後は弟を謀殺したり、酒や女性におぼれ、エチオピア(正確にはクシュ王国/現在のスーダン)遠征に失敗、さらには遠征中に本国で発生してしまった反乱に悲観して自殺したという説や、または落馬の事故による怪我で死亡した説など、最後まで散々である。

初代王のキュロス2世は初めて古代オリエントを統一し、武人としても名高く、最強の軍隊を持ち、人民に寛容な王であったという、まるで王の鑑のような人物だったという話と比べるとあまりにも対照的だ。

そう「あまりにも」対照的なのである。なにか意図があったかのように対照的なのである。

カンビュセス2世に関する資料のほとんどは、実はキュロス2世の次にアケメネス朝を引き継ぐこととなるダレイオス1世が作らせた資料と、ヘロドトス等のギリシャの歴史家達が記した資料がもとになっている。

実はここに大きなからくり、というか大きな疑惑が隠されている可能性がある。それは、実はカンビュセス2世は後継のダレイオス1世によって暗殺されたという疑惑だ。

というのもダレイオス1世はベヒストゥン碑文という有名な記録を残しているのだが、その内容は非常にプロパガンダ的で、基本的に自分を称えるための記録となっており、その内容の信憑性に疑問を投げかける専門家も多い。

このダレイオス1世が残した資料による、カンビュセス2世は弟を殺し、堕落し、国に混乱を生み、反乱を抑えきれず悲観して自殺を選んだ、という事になっている。そしてその反来を平定してアケメネス朝の第3代王についたのが、当時カンビュセス2世の部下であったダレイオス1世という事だ。

カンビュセス2世は本当に堕落した暴君だったのか?

カンビュセス2世がどのような人物像であったかは確定的な資料が残っていないため正確に知る術はないが、史実として彼はキュロス2世から正統な形でアケメネス朝の王位を継ぎ、キュロス2世の成し遂げられなかった悲願のエジプトの征服を成し遂げている。しかもこのエジプトの征服は軍事力に頼った力まかせのものではなく、補給線の配備や諸国との連携といった外交的努力や下準備によって成し遂げらた側面が強い。しかも部下の軍に任せていたわけではなく実際に彼も行軍に参加しエジプトに入っている。

ここからは著者の勝手な推測であるが、この様な困難なエジプト遠征を成功させ、現場主義者の様な彼が、とても堕落した暴君とは考えにくいのだ。

おそらく父キュロス2世を側で見て育った彼も現場主義の武人であったのではと推測する。この現場主義は悪い側面で言えば、遠征などに長期間出かけてしまうと、王宮での政治活動が疎かになってしまい、戦場から遠く離れた王宮で権力をめぐって謀略に満ちた怪しい動きが起きてしまう。

そう、まさに彼の部下、ダレイオス1世によるクーデターである。

クーデターに成功したダレイオス1世は自分の行動を正当化するため、堕落した王は取って代わられて当然であるとプロパガンダを行う。それがベヒストゥン碑文であり、また後のギリシアの歴史家達もその様に流布されたペルシアでの話を元に歴史書を書く。こうして堕落した暴君、カンビュセス2世が出来上がったのではないだろうか。

以上、あくまでも著者の個人的憶測であり、残されている資料が乏しいかぎり正確な彼の人物像は分からないままではあるが、2000年以上に渡って、作り上げられた誤った人物像が伝えられたしまったとすれば、とても悲しい事だ。

今回はこの様な彼を、若い頃から父に伴い諸国を遠征し周ったであろう事から、少しペルシア文化とは違う異国情緒のある服装を取り入れ、現場で軍の指揮に立つ武人らしい彼の姿をイメージして描いてみた。

川田 ヒデホ

金沢市在住のイラストレーター。仕事のお話や、取材先での出来事、あまり仕事に関係ないけど個人的に気になった出来事、など色々書いています。 お仕事の事やブログの内容などで気になった事があればブログのコメント欄や、スタジオトップのお問い合わせフォームからお気軽にご連絡ください。

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